ベクシル 2077日本鎖国
2007/08/27 21:49 - は・ば・ぱ・う゛行
なっちゃないSF考証、薄っぺらい人間ドラマ。唖然とする以外なす術がない戦後闇市の場景に住人はすべて特定亜細亜人的風貌。
「人々が活き活きとしている」というセリフを聞かされたときは、頭を鈍器で500回殴打されたくらいの衝撃が走りました。
プロット、シノプシスから始まってスクリプトに至るまで壊滅的に腐りきった駄シナリオも、充分弾劾に値するとは思いますが、それよりももっと致命的な欠陥をこの映画は内包していると考えます。
私は、この映画によって監督が何を目指したのかが全く見えてきませんでした。
「アップルシード」で世に問うた『3Dライブアニメーション』という手法。
当時のインタビューで、曽利監督(「アップルシード」ではプロデューサー)はこの手法をスタイルとして定着させたいと言っていた。
つまり、実写ともセル彩色アニメとも違う、第三の手法を確立させたいということですよね。
だったら『3Dライブアニメーション』第2作目であるこの映画の至上目的は一体何なんでしょう?
実写の代替物ではなく、セル彩色アニメの代替物でもない、全く新しい手法『3Dライブアニメーション』。 その独自性や優位性など、新手法の特性を最大限に引き出し、『3Dライブアニメーション』の意義を観客に理解させることなんじゃないですかねぇ。
なぜ美少女で近未来でミリタリーで弾幕で爆発なのか?
それなのになぜキャラや風景といった画像造形に対して、中途半端に実写指向に走り、結局、実写の劣った代替物にしてしまったのか?
ここんところがまったく理解できない。
新しいスタイルとして認知させるには一つや二つの映画を作っただけじゃ、足りないと思うんですよ。
で、『3Dライブアニメーション』第2作目の方向性としては、二つ考えられるんじゃないかと思います。
ひとつは、80年代アニメ的世界をこの手法で表現し、ジャパニメーション=クールを再現すること。これはよりアニオタ志向と言えるでしょう。
いまひとつは、より実写的・日常性へとシフトし、例えばハートウォーミング系な感動物語(第2作目でここまでの変節は極端過ぎるけど、例えばの話として)も表現できるのかという気付きを観客にもたらすこと。これは一般大衆志向と言えるでしょう。
その昔「プラトニック・チェーン」という『3Dライブアニメーション』と全く同じ原理で作られた深夜TV番組がテレビ東京で放映されていました。
物語的にはSFだったようですが、現代の女子高生たちの日常といった何げない場景の描写に、より多くを費やしていたように記憶しています。
このように『3Dライブアニメーション』は「ルネッサンス」のコントラストの強いモノクロ映像と違って、上記二つ目の方向性である日常性を表現し、一般大衆志向になることも可能だと個人的には思っています。
で、元に戻りますが、なぜ美少女で近未来でミリタリーで弾幕で爆発などというベタベタのオタ向け展開でありながら、キャラ造形が中途半端な実写志向なのか?
オタ向け展開で進めるなら、萌えキャラにするべきなのでは?
実写風キャラで行くなら、もっと日常的な物語にすべきなのでは?
オタに媚びてるわけでもなければ、大衆に向いているわけでもない。
だから、オタにはそっぽを向かれ、大衆からは省みられることがない。
私はこの映画、公開二日目である日曜日の14時に池袋の映画館で観ました。
開演15分くらい前にチケット買ったんですけど、余裕でイイ席取れた。
これだけでもけっこう驚きだけど、客席が半分くらいしか埋まってなかったのが、更にショックでした。
その日その映画館では午前中に舞台挨拶があったんだけど、その回のチケットもヘタすると完売しなかったんじゃないかと、ちょっと不安になりましたよ。
公開早々コレはかなりヤバいんじゃあ……
『3Dライブアニメーション』スタイル化の野望が潰えたんじゃないかと心配しちゃいますよ。と、これはまぁ大きなお世話。
本家本元がこの体たらくでは「エクスマキナ」に対する期待がいやが上にも高まるワケです。