パンズ・ラビリンス
2007/10/27 23:53 - は・ば・ぱ・う゛行
ナナフシと花のビジュアル。そしてその映像にかぶさるナレーション。
このラストシーンのせいで、この映画は一気に台なしになってしまったんではないでしょうか?
この映画は、夢幻の世界、そして牧羊神・妖精などの幻想世界の住人たちを登場させるという表面上はファンタジーものに見せかけた作品でありながら、その実体は、あまりにも過酷な現実から目を背け妄念の世界へ逃避した少女が、残酷な現実に翻弄された挙げ句に無慈悲な死を迎えるという徹底したリアリズム映画。
なのに、あのラストシーンのナレーションじゃ、ファンタジー世界が存在するということになってしまい、映画の世界観が瓦解してしまいますよ。
だいたい、あの非現実世界がオフェリアの空想に過ぎないということは、第二の試練を見れば明らか。
制限時間と異界の食物を口にする禁忌。この二つを破っておきながらミッションクリアなんて神話的世界観ではあり得ない。
最初に作った異界と現実をつなぐ扉が閉じてしまったにもかかわらず、別の扉を作って現実世界に戻るわ。
禁忌された異界の食物を口にしておきながらその異世界に幽閉されずにすむわ。
しかも第二の試練に失敗したにもかかわらず、第三の試練に挑むことが何の代償もなく許されるわ。
ファンタジー世界のロジックが完全に破綻しているのも、全てはオフェリアの脳が生み出した妄想であると考えれば腑に落ちる。
ファンタジー風に見せかけたリアリズム映画であると理解した観客に向かって、なぜあんな救済じみたラストのナレーションを聞かせるのか。理解に苦しみます。
それにしても第三の試練の真実。
あれを聞いて、芥川龍之介の「杜子春」という文化汚染作品を思い出しましたよ。
芥川龍之介は大好きな作家だけど、「杜子春」だけは好きになれない。
儒教的孝養観によって道教的神仙世界をPTA的教条主義に染め上げた「杜子春」。
キリスト教的義認論によって神話的パワーを解体・消毒してしまった「第三の試練」。
この二つはダブって見えます。