インベージョン
2007/11/01 23:52 - あ行
ヒトであることをやめて、恒久平和の静寂に沈み込むのか。
ヒトであり続けて、混乱波乱動乱に身を投げ出すのか。
侵略SFの古典「盗まれた街」の第4回目の映画化である「インベージョン」は、このような二者択一を迫ります。
過去の映画化においては、脱出サスペンス、人間の敗北による破滅と絶望、共産主義思想のような特定思想信奉者による洗脳の恐怖の暗喩、あるいは純粋にホラー的要素を強調したものなど、その時代々々に沿っていろいろな描かれ方をしてきました。
今作では、地域紛争やテロリズムなどといった社会情勢の不安に充ち満ちた世界という時代性を反映したアレンジが施されています。
原作小説に描かれた、サヤ人間になることで欲望や感情が失われるという部分が抽出・拡大解釈なされたのです。
宇宙胞子に感染した者が棲む世界は、感情が消える結果として、憎悪や戦争といったものが根絶された理想郷が実現すると人間もどき達は主張します。
そして人間の側から、それに対するアンチテーゼである、人間としての喜び楽しみといった感情を失う悲しみといった反論は特になされていません。
まぁこれは、製作陣のペシミズムから反人間賛歌としてこの映画が描かれたためというよりも、過去の映画作品において既に言及がなされおり、過去の映画作品はマスターピースとして観客が当然知っているべきものである、という前提で作られた作品だからでしょう。
そして、その過去作品というのは、どうやら第2回目の映画化作品「SF/ボディ・スナッチャー」が想定されているようです。確かにあれは傑作だからな。
わたくし思いますに、このアレンジメントはけっこう秀逸だと思います。
陳腐な言い方をしちゃいますが、時代性を鋭くえぐったものであり、描き方によっては、かなり重くまた深く考えさせられる作品を生み出すコンセプトでしょう。
そのように映画のコンセプト自体はすごく良いのですが、肝心の映画自体の出来がちょっと残念なのが実に悲しい。期待が大きかった分、失望もセンシティブです。
原作を含め、今までの作品の中で、蔓延範囲が最も広いにもかかわらず、全米規模のパニックといった事の大きさが感じられず、あくまでのキャロルの周囲という狭い範囲しか見えないスケール感不足。
また、ラストの警句に陳腐な印象がぬぐえず、なんかコンセプトの良さが活かせていないなぁ、というくらいはまだマシな部分です。
ストーリー面よりもむしろ演出面に大いに不満あり。
物語途中からスタートし、過去に戻って話が展開する時系列崩しの意図がまず不明。
そして映画の合間合間に挟まれるカットバックも全然効果的でなく意味がない。
要所要所でかなり唐突な展開は、原作の流れをムリヤリ当て嵌めたせいなんでしょうか。
前夫カウフマンがキャロルに事実を告げるシーケンスは展開がかなり急な感じ。
また、地下鉄車両内で「無感情なふりをすれば奴らは気がつかない」という説明や、路上で「そんなに汗をかいていると感染していないことがバレるぞ」という助言は、その説明者・助言者が、映画内時間がそれほど経過しているとも思えないのに、なぜそんなことを知っているのか、と唐突な印象を受ける、などなど。
前述したように、この映画を観るに当たって、過去作品や原作を知っていることが前提のようなので、あえて説明していなかったり、展開を早めているんだろうけど、この映画単体で考えると、やはり瑕なんじゃないでしょうかね。
そして、人間の感情が消えた場合、戦争や紛争がフェードアウトするのであって、総書記が核廃絶をわざわざ宣言したり、大統領が和平をわざわざ宣言したりするような、見せつけがましいデモンストレーションは発生しないんじゃ? という気もします。
あと、侵略SFというよりは、なんかゾンビもののような印象だったのが、ちょっと違和感といえば違和感ですかねー。
まぁいろいろ苦言を呈しましたが、個人的にはこの映画は評価していますよ。フィリップ・カウフマン版の次に良いです。
コンセプトの勝利ってな感じですかね。
参考アフィリエイト
原作
同一原作による過去の映画化作品
-
ボディ・スナッチャー/恐怖の街
(1956)
-
SF/ボディ・スナッチャー
(1978)
-
ボディ・スナッチャーズ
(1993)
インスパイア作品
映画
書籍
-
月の裏側
(恩田陸 幻冬舎文庫)
ミュージック
-
S-F-X
(細野晴臣)
言わずと知れたYMOの細野晴臣が、YMO散会後に発表した作品。収録曲にそのものズバリ "BODY SNATCHERS" というのがあります。歌詞中に "Body Snatchers" だの "Thing" だのといったフレーズあり。
この他に水木しげるの貸本時代の漫画に「呪われた村」という、舞台を日本の江戸天保時代に移した翻案作品もあります。