魍魎の匣
2008/01/18 23:06 - ま行
少なくとも前作「姑獲鳥の夏」よりは映画として面白い。
まぁ原作の「姑獲鳥の夏」は「陰摩羅鬼の瑕」と並んで、形而上学的というか、唯心論というか、思考実験というか、そもそも映像化に向いてない作品なんですけどね。 文字メディアである小説だからこそ成立する作品。
それに対して、原作の「魍魎の匣」は一番ビジュアルイメージに溢れる作品だからなぁ。 よっぽどのボンクラでない限り前作より映画として面白くなるに決まってる。
しかし前作よりマシとは言え、京極堂シリーズ映画作品として見るとどうなのかと考えると、ちょっとビミョーだなーと感じるのは、原作好きな人間の僻目でしょうか。
まず一番に指摘しておきたいのはラストシーン「ほぅ」のビジュアル。
バラバラ死体や達磨女といったアイテムで、今まで醸し出してきたグロい雰囲気を、あんな安っぽいメージ映像みたいなビジュアルでぶち壊す意図は奈辺にあり哉?
他にも言いたいことはいろいろあります。
前作では登場人物中最も役者と演じるキャラがマッチしていた関口のキャスト交代はけっこう致命的。 あんな健康的でチッキリしたルックスの関口ってのはどうなのか。
中禅寺のキャラが原作からさらに乖離して、堤真一のキャラクター性にどんどん引っ張られているのも不満というか不安というか。
「引っ張れ引っ張れ」とか、あせっている風な「じゃあなぜ鬼門に配置するんです」とか、オーバーアクト反閇とか。
ああいうストレートな言動じゃなくて、もっと遠回りな皮肉っぽい態度が中禅寺だと思うんだよなぁ。
上海ロケについては功罪ともに大きく感じました。
現代の日本で昭和30年代の風景をロケで表現するのはおそらくかなり難しいと思う。やるとなるとセットになるんだろうけど、予算上、邦画のセットではどうしてもしょぼくなってしまい、映画のスケール感自体が損なわれる。
実在する建物や街並みの存在感はとても大きなもので、この映画の奥行きにとても貢献していたと思う。
しかし、日本と中国では文化や生活習慣が全然違うわけです。どう脳内補正しても日本にかつて存在した風景とは明らかに違う。
日本の長屋は石積みではなく木造だし、しかもその石積みの建物が続く軒先を延々と商店街のアーケードのような造りの屋根が付いていたりしないわけです。
そんなわけで上海ロケであろうと思われる風景は、存在感も大きかったけど、違和感もけっこうありました。川もかなり広いしね。 唯一違和感がなかったのは、赤井書房が間借りしている建物の外観くらいなものか。
でも上海ロケというのは、ベストではないかも知れないけれど、ベターな選択であったんだろうと思います。
榎木津が前作よりも素っ頓狂なキャラになっていたのはよかった。まぁまだ足りないけどね。
あと、達磨女を映像にしていた点も高ポイントでしょう。
前回は長回しのため棒読みになってしまった中禅寺の薀蓄シーンは、今回は良いですね。 細かいカットを積み重ねるやり方にしているため、シーンシーンでいちどきに役者が台詞を覚える労が、前作よりもはるかに緩和されたらしい。 前作に比べるとちゃんとセリフになっていて、これも評価できる点ですね。
とまぁいろいろ言いたい放題書いてきましたが、京極堂シリーズが好きだという色眼鏡を外して純粋に「映画」として観れば、テンポよく構成もまとまっていて、わりと良作なんじゃないかと思います。