ゲド戦記
2006/08/02 22:01 - か・が行
「一羽で飛んでいる鷹は悲しかろ」という歌詞や、原作には存在しない父王殺しのシーケンスから、偉大すぎる父を持った者の劣等感とルサンチマンと疎外感が、観てるこっちが痛々しくなるほどに伝わってきて、実に憂鬱になってくる映画ですね。
「この世界の人々はすべて頭が変になってしまった」なんていうセリフは老人の繰り言だからこそ許されるのであって、40歳前の男がしたり顔で言って良い言葉ではないですよ。
まぁ、前述のコンプレックスの反動が、こういう「自分以外は全部バカ」的なことを言わせているんでしょう。
そして、アレン=吾朗というのは、あからさま過ぎるくらい明らかなわけですが、アレンが主役のセカイ系という枠組みでゲド戦記を綴らざるを得なかった吾朗の、押しつぶされそうな心と魂に思いを馳せると、ちょっと同情しないでもない。
まぁ、建築設計屋がアニメ監督なんぞしてんじゃねーよ、同人じゃねーんだからシロウトはすっこんでろ、というのが真理でしょう。
それにしても実にいびつな映画である。
最初っから異様にアレンに対して過保護なハイタカ。
アレンをあれほど毛嫌いしていたのに、なぜか独唱を聴かれた途端、心全開のテルー。
画面外ではかなり強い抵抗にもかかわらずビクともしなかったということをテルーの腕の痣で表現していながら、画面内になった途端あっさり抜けるテルーが縛られていた柵。
こんな演出は如何なものか。
人狩りに捕まったアレンは移送途中に速攻でハイタカに助けられて、試練にも何にもなりゃしないエピソードが果たして必要なのか?
刺した、血が出た、それっきり、の父親殺しのシーケンスは、観客にとって、本当に描かれる必要があったのか?
そして、何の説明もなくテルーは龍に変化し、あっけなく悪が滅びる結末。
初めてテルーを見たハイタカが訝しむシーケンスから、どうもテルーが特別な存在だということは理解できる。
でもいくらなんでも龍だったなんて事までは察せないです、エスパーじゃないんだから。
あまりにも突飛な展開はご都合主義の誹りは免れませんよ。
だいたい、龍は自由を選び火と風を手に入れ、人は物を選び海と大地を手に入れた。以来、人と龍は同じ場所に存在できない的な説明を老臣がしていたじゃん。
あれはミスリードの反則技になるんではないですか?
それとも原作ではテハヌは龍という設定なんですか?
ようするに、原作知らない人間は門前払いっちゅーことですか?
とはいえ、ズブの素人が監督した作品にもかかわらず、これだけのクオリティが保てるんだから、いかにジブリスタッフの技量が高いかということの証明なのかも知れないなぁ、この映画は。